オリンピックが始まるまでに、何回も大きなトラブルが起こっていますね。
小山田圭吾氏の過去のいじめが明らかになり、オリパラ辞退ですが、デジタル時代の「価値観」について一言。
随分と各方面から叩かれて、辞退に至った心境など、素直に語っていた本人でしたが、擁護する人は皆無に近く、この事件の酷さの本質を改めて考えた次第。
その中で、太田光氏の「当時の価値観では・・・」の発言は、相当に引っかかりました。
デジタル時代のネット発掘が、30数年前のいじめをあぶり出したのだけれど、そのことと「当時の価値観では・・・」の発言の間に、大きな勘違いがあると思うのです。
それは今の時代をどうみてるか、という点でしょう。
太田氏は当時の価値観を引き合いに出して当時の雑誌ロッキンオンに語った小山田氏の発言を、あれこれ言うのはフェアではない、という趣旨の発言をしたのでした。
しかしその内容が、価値観云々とひと括りにするにはあまりにも酷いものであったために、到底見過ごすことができないと社会が考えたのだと思います。
いじめの残忍さ、嘲笑、辱めの内容は衝撃を与えたし、いじめられた経験を持つ人は昔の記憶を思い出して耐えられなかったと思います。
なによりパラリンピックという障害を持つ人が競技する場に、障害者をいじめた人間が作曲する音楽を流す行為が、どういう意味を持つか、そんな想像もできない、組織委員会の態度に世間は呆れました。
当時の価値観の話に戻ります。
マスコミがつくる時代の空気、というのがあります。それほどに昔の雑誌には影響力があったのです。
私が昔働いていた宝島社という出版社では、サブカルを題材に多くのベストセラー本や特集記事を産み出しました。だからよくわかります。
サブカルチャーと言ってしまえば、なにかカッコよくて新しくて、時代の先端を行っているという悲しい誤解です。
例えば30年前の平凡パンチや週刊プレイボーイなど、男性週刊誌を読み返すと、現在では許されない表現や言葉づかい、用語などが、ここかしこに登場します。
それが当時の価値観とすれば、いじめ武勇伝を語ることも当時の空気として、ギリギリ許されたのかもしれません。だから当時の編集長が雑誌にインタビュー記事を載せたのだと思います。
渋谷系のサブカルなどという、実に軽薄な流行語で音楽家を語るような時代があったのです。(今もそれはありますが)
さて、今回の問題の本質はどこにあるのかと。
それは価値観の違いなどではなく、正しくは、去年の話だろうが50年前の話だろうが、発言した本人が生存し社会活動をしている限り、いまのデジタル時代には時間を飛び越えて、当時の行動や発言が発掘される時代なのだ、ということにあります。
当時の価値観が今の時代の価値観に置き換えられてしまうのが、現代の社会なのです。
そしてSNSという個人の発言や意識を共有するツールが、無料で誰でも手に入り、自由に発言できる世の中になってしまった今、そういう時代の中で生きているという自覚が必要であり、発言や行動に最新の注意が必要なのです。
許せない!
このような声が上がれば、あっという間に燃え広がり、手に負えなくなってしまうのが現在の世の中です。
発言者にとって当時の価値観や時代の空気は関係なく、自分の価値観で簡単に置き換えられてしまう怖さ。
問題のあった事実だけが残り独り歩きし、事あるごとに蒸し返される。それが今のデジタル社会というわけです。